肛門を貫く剛剣の伝説
社会の、あるいは小さなコミュニティにおいても、その秩序を維持するために構成員の従うべきルールを設定するということは、ある程度必要なことであろう。
たとえばスポーツであれば、試合の効率化、競技の差別化、選手の安全確保などさまざまな目的に沿ってルールが設けられている。
サッカーボールを手で触っていいのであれば、それはハンドボールの試合を見ているのと変わらないし、野球の走者が相手チームの選手に所構わずタックルをしていいのであれば、守備側からしたら危なくて仕方がない。
もっと大きなコミュニティに目を向けてみたらどうだろう。
社会においては、慣習が、あるいは目に見える形としては法律やそれに準ずるものが、長い年月をかけて構築され、僕たちの暮らしを、秩序を保ってくれている。
もちろん、法律なんて大それたものばかり考えなくても、たとえば学校という小さな社会にさえルールは存在する。
一人ひとりがルールを守ることで、社会全体として秩序が保たれ、一人ひとりの快適な生活が担保される。ルールというのは、守って然るべきものなのである。
しかしながら、ルールに従順になりすぎるというのも考えものだ。
一分一秒を争うような事態のときに、まったく自動車のくる気配のない細い道路で歩行者用赤信号を素直に守る人。
授業中の退室を禁止したばかりに、体調不良を訴え苦しんでいる生徒に対して授業終了まで耐えるよう命じる教師。
男子校で貸し切り、男子更衣室に人が溢れかえっているにも関わらず女子更衣室を開放しない運動場の管理人。
「ルールだから」という言葉で片付けるのは簡単だが、こうしたいわば頭のかたい行動というのは、時に周囲に不都合を生じさせる可能性があることを忘れてはならない。ルールを守ることは重要であるが、秩序を乱さない程度の柔軟性というのも、社会には要求されている。
さて、かたくて困るのは何も頭ばかりではない。
そう、うんちである。
今朝の僕は実に快便であった。
昨日食べたものをいまいち思い出せないのが残念であるが、たいそう豪快に排出されたあの姿を、一生忘れることはないだろう。
しかし、ここでひとつ問題が発生した。
なぜだか今日のうんちはやたらとかたかったのだ。
たとえるならそう、剛剣のごとく。
ふんばればふんばるほど肛門に痛みが走る。鬼の形相で直腸から褐色のつるぎを引き抜く僕の姿は、かつて名を馳せた戦国武将の誰よりも勇ましい。
赤く染まる刀身が彼らの強さの証。それは僕にとっても同じことだ。文字通り断腸の思いで産み落とされた伝説の剛剣を前に、僕は誇らしささえ感じていた。
そしておしりを拭いたトイレットペーパー、その変わり果てた色を見て思う。
これが......切れ痔か............。
現代を生きる武将の誇りは、どうにも格好がつかないらしい。