何やらオタクが叫んでいる

図書館の階段を軽やかに駆け上がる。1段飛ばし、2段飛ばし、まるで誰かに引っぱられているみたいにとんとんと体が弾んだ。課題を印刷するだけの用事だが、それだけでなんだかちゃんと大学生している気分に浸ってしまう幸せな青年は、小躍りに歩を進め、共同パソコンの並ぶ3階を目指した。

 

ちょうど最後の一段に足をかけた頃だろうか、見るからに丈の合っていないダボダボの服に、異常な程にストラップの長いショルダーバッグを引っ提げた男が、威圧感を撒き散らしながら向こうから歩いてくるのに気づく。どうやら階段を降りようとしているらしい。僕の大学にはこんな感じの人はいくらでもいるのだが、なぜか今回は少し嫌な予感がした。

 

軽く会釈をしてそのまま通り過ぎようとした次の瞬間、

 

「出る人が優先じゃろがい!!!!!!!!」

 

少しの物音も許さない空間に、場違いな怒号が雷のごとく響き渡る。当然僕は驚き目を見開いてしまったわけだが、それ以上に納得いかない部分があった。

 

確かに電車の乗り降りでは降りる人、つまり電車から出る人が優先だと小さい頃から教えられてきた。しかしこの場合、はたして出る人が優先であること自体に出る人が優先である事実の本質としてどれほどの価値があるのだろうか。どうして出る人が優先なのかというところから考えなおす必要がある。

 

この疑問に対して、僕は安全性と効率性の2点から答えを用意した。

 

まずは安全性についてであるが、これは駅員視点の話になる。利用客の多い駅では各車両に駅員が配置され通行整備をするところもあるようだが、基本的には車掌がホームを見て乗客がはけきった段階でドアを閉めることになる。このとき、車掌からはホームから電車に乗ろうとする客は見えても電車からホームに降りようとする客は見えないのだ。見えなければ、ドアを閉めるタイミングを誤り客がドアにはさまれてしまうというリスクは当然高まる。そこで、比較的確認しやすいホーム側の人間をあとに残すことでそのようなリスクを低く抑え、安全性を実現している。

 

安全性に関しては、今回の図書館のケースとはあまり関係がなさそうだ。

 

次に効率性についてであるが、これは単純にスペースの問題だ。仮に電車に乗る人が優先されたとして、混雑時車内に十分なスペースがなければ、降りようとする人はたった今乗ってきた人を掻き分けて進まなければならない。実に非効率だ。対してホーム側には降りてくる人をよけるのに十分なスペースがある。それなら降りる人を優先させた方がスムーズに乗降ができるだろうというわけだ。エレベーターの乗降なんかがこの例の典型だろう。

 

図書館の件もこちらの理由で説明がつきそうだ。

 

階段側にはよけるスペースはほとんどない。明らかに図書館側によけた方が効率的であろう。やれやれ、この男は見た目だけでなくおつむまで残念だ。出る人が優先という表面上の概念にとらわれ物事の本質がまるで見えていない。

 

ここは一つガツンと言ってやろう。こんな偏差値15の理不尽キモオタごときに一方的にやられてたまるもんか。

 

地震でも起こっているのかと勘違いするほどに肩を揺らして怒り狂う男に負けじとメンチを切ると、男の顔はみるみる殺気を増し、今度は得意の雷で図書館全体を焼き尽くそうかという勢いだ。

 

「............」

 

「..................」

 

「す、すみません.....」

 

気づいたら謝っていた。

 

実際には数秒もなかっただろうが、激昂する雷神と対峙した勇者かぶれの臆病者にとってはそれはそれは長く感じられた睨み合いについに耐えかねたのだ。

 

ネット弁慶な僕はせめてもの反撃をとここにこうして偏差値15ダボダボストラップオタクの悪口を書き連ねて憂さを晴らしておく。