肛門パラドックス

10年前夢見た理想の自分などというのはもうあまり覚えていないのだが、少なくとも今の僕がその理想に近しい何者かになれているかという問いに対しては確かな自信を持ってノーと答えることができる。幼い頃は大人というものを想像もできないほどに大きく感じていたものだが、いざなってみると案外こんなものかと拍子抜けするほどに大人というのは普通な生き物だ。

 

大人といえば、大人ならよほどのことがない限りうんちは漏らさない。

 

もう一つ、よほどのことがない限り大人なら人の話は最後まで聞かなければならない。

 

では、人の話を聞いている途中でめちゃくちゃにうんちをしたくなったらどうすればいいのか。

 

仮に話を聞くことを優先してうんちを漏らしてしまったとする。大人ならよほどのことがない限りうんちを漏らさないにも関わらず、現にこうしてうんちを漏らしてしまったのだから、よほどのことが起こっているわけだ。これは人の話を聞かなくていい例外条件としてのよほどのことにも該当すると考えていい。つまりうんちを漏らしてしまった場合は、よほどのことなのだから話を中断してトイレに行けばよかったのにという結論に至る。そしてうんちを漏らされた側の人間からしてみれば、悪臭が不快なこと極まりない。

 

では、素直にトイレに行けばいいのかと言われると、そこにもまた難しい問題が生じてくる。今度はうんちを優先して人の話を中断してトイレに行ったとしよう。トイレに行った側の人間からすると緊急事態なわけであるから、話を中断することは極めて仕方のないことである。しかし、トイレに行ってしまった時点で、話を聞いている最中にうんちを漏らすという事態は回避されたわけであるから、話をしていた側の人間からすれば、はたしてトイレに行った人が本当にうんちを漏らすほどの緊急事態だったかどうかはわからないわけだ。ネガティブな人間なら、自分の話がつまらないからトイレに逃げてしまったのかなと不安になるだろう。疑心暗鬼は人間関係の崩壊を呼ぶ。うんちごときで貴重な関係が壊れたともあれば、肛門の神様もお役御免である。

 

こんな風に、同時に成立し得ない複数の条件を不条理に突きつけられるのが大人の世界だ。

 

社会で生きていくのは実に難しい。