誇り高きぼっちの週末
街中が活気づき、どこからともなく楽しげなはなうたが聞こえてくる季節がやってきた。こんなに寒いというのに、毎年毎年よくもまあたった一夜のためにこんなにも盛り上がれるものだ。世間は完全に浮き足立っている。
そんな流れに乗り遅れてしまったのだろうか、僕なんかの週末の予定を聞いてくる愚か者どものラインは未読のまま、年末のスケジュールに思いをめぐらせる。
無論、朝から晩までバイト漬けの僕にクリスマスを楽しむ権利などあるはずもないのだが、それでなくても乗り気にならないのが引きこもりのさがというものだ。
だって、街に繰り出してみれば、目に入るものはカップル、カップル、バカみたいに騒ぐ集団を挟んでまたカップル。僕みたいにぼっちでいる人なんて誰ひとりとしていやしないじゃないか。
キリストのキの字も考えない日本のクリスマスは、いわばリア充カーストを浮き彫りにする最高級に排他的で差別的で、残酷なイベントなのだ。
僕はそういう反社会的な催しにどうにか一石を投じたいわけで、この時期は極力部屋から出ないようにしているし、たまに出かけた先がきらびやかに彩られたクリスマス仕様になっていようものなら、その店に対する非売運動をひそかに行うなどの抵抗をしている。
世間はこの小さなデモンストレーションに気づく素振りもないが、どうやら僕の生活はじわじわとその影響を受けているみたいだ。
今日だってひさびさに学校に行ったのだが、あまりにひさしぶりだったからか、入る教室を間違えてしまったのだ。見たことのない先生が聞いたことのない内容の話をしていて、それなのに僕は教室を間違えていることにしばらく気づかなかった。
さすがにこれはいかんと猛省はするものの、やはり外に出るのは億劫に感じてしまう。これ見よがしに張り巡らされた電飾は、普段太陽の光さえろくに浴びていない僕にとっては目が痛いほどに明るすぎるのだ。
こんな風に思い始めたのはいつ頃からだったろう。僕は比較的長いことサンタクロースの存在を信じていた部類の人間であるが、そんな純粋な少年が随分と捻くれてしまった。
そういえば、小学生の頃はサンタクロースいるいない論争がよく繰り広げられていた気がする。
いない派の意見はだいたい「サンタクロースの正体は親だ」というもので、それにまともに反論ができる者はいなかったから、この説が有力視される実に現実主義的なクラスであったが、当時の僕はそれに少しの不満を抱いていた。
この論争にはあるバイアスがある。
「親が部屋にプレゼントを置くのを見た」
「サンタクロースがいたとしたらそれは不法進入だ」
「すべての子どもにプレゼントを届けるなんて手がまわるはずがない」
この手の主張は、仮にサンタクロースの存在を認めた場合、サンタクロースが直接家にプレゼントを渡しにまわっていることを前提に話が進んでしまっているのだ。
サンタクロースいる派だった僕の仮説はこうだ。
まず、サンタクロースというのは特定の個人を指す言葉ではなく、クリスマスに子どもたちへプレゼントを届ける仕事をしている人の総称である。
彼らは直接家にプレゼントを渡しにいくことはなく、親からの注文を受け、近所の店に取り寄せあるいは自宅への郵送等の業務を行う。
専門的に受注発注業務を行うことで、どこの店に行けば目当ての商品が売られているのかわからない親でも安心してプレゼントを探すことができる。
その利便性の対価として仲介手数料をもらい、それによって利益を計上する。
サンタクロースいない派の主張は、プレゼントを手にした親が子どもに届ける部分しか見えていないことに起因すると考えられる。
また、繁忙期の12月はもちろん、他の季節にも随時注文を受け付けており、クリスマス以外にもサンタクロースはプレゼントを届けてくれる。ただし、サンタクロースのサービスは子どもひとりにつき年一回と利用回数が定められており、そのためクリスマス以外にこれを利用する人はほとんどいない。
これによって12歳の僕は中学受験を理由にサンタクロースが2か月ほど遅れてきた理由を説明した。
その後情報化社会に飲まれた僕は、数年もしないうちにそんな営利主義的なサンタクロースなど存在しないことを悟ったわけだが、高度にインターネットが発達した今の時代、子どもに夢を見させ続けるのも大変だなあと感慨にふけっている。
思えば、斜に構えたものの見方をするようになってしまったのは、サンタクロースの非存在に絶望してからだったかもしれない。子どもの幻想を無残に打ち砕くこの世界を嘆きながら、先の愚か者どものラインにそっと既読をつける。
僕は誇り高きぼっちなのだ。