けつ毛の出番はいつの日か

情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。

 

人にかけた情けはやがて巡り巡って自分の恩恵として返ってくるのだから、人には親切にしろという意味の言葉らしいが、やれやれ油断した。どうやら返ってくるのは情けばかりではなかったらしい。

 

思い返すと、なかなかに舐め腐った人生を送ってきた。

 

人をおちょくることにどうにも表現しがたい喜悦を感じていた若かりし頃の僕は、ベルトから肉のはみ出している数学教師をハミルトンと呼んでみたり、スピードを重視するあまり作業を台無しにした先輩を神速と揶揄してみたり、妙なあだ名をつけることが生きがいにさえなっていた。

 

ところで、僕は毛がのびるのが早いことで定評がある。髪や髭など目に見えるところはもちろん、鼻毛なんかもしかりである。

 

特段鼻毛に関しては、大学生になってからというもののそののびる速度は指数関数的に伸び上がり、成長の早さが自慢の竹をも感服させた。

 

ただ、竹に敬服されたところでこちらには何のメリットもないわけで、代わりに彼の近くに生えていたタケノコをおいしくいただいたのだが、子どもを食われたとあってはさすがの竹もご立腹なようで、それ以来竹とは成長速度を競うこともしていない。

 

言うなれば喧嘩別れというものであるが、二度と帰るかと意地を張っているうちに、彼の住む竹藪はきれいに整地されてしまっていたのだ。

 

それで激しい後悔と哀惜の念に苦しむなどしているあいだ鼻毛のケアを怠っていたのだが、そのつけがついに回ってきた。

 

ある日の僕は、鼻の穴に髪の毛を差し込んで遊んでいるのだろうかと疑うほどに大胆に鼻毛を飛び出させていた。しかも両側からである。

 

無論、そのことに僕は気づいていない。

 

さて、小さい子どもというのは実に素直である。思ったことをすぐ口に出してしまう。鼻の両穴から最高級の毛を覗かせている怪しい男とすれ違う子どもが抱く感想はただひとつしかない。

 

 

「うわ、鼻毛マンだ」

 

 

そう、僕は鼻毛マンなのである。

 

実に屈辱的なあだ名だ。こんな辱めを受けたのは僕が高校1年生のとき、いつまでたっても名前を覚えてくれない英会話の先生にヒゲというあまりに捻りのない命名をされて以来のことである。

 

それにしても僕は体毛にご縁があるらしい。

 

ヒゲ、鼻毛マンときたら次はケツゲニストとかだろうか。けつ毛は確かに生えているが、生憎僕よりも圧倒的なジャングルを誇るケツゲニストを僕は知っているので、このあだ名はその人のためにとっておいてほしいところだ。

 

そんなこんなで情けは人の為ならずというか、情けではなかったけれども、巡り巡ってというのを想定外の形で痛感したもので、聖人でありたいと願うばかりの今日この頃である。