ロリコンボルダリンガーの野望
蝉がうるさく求愛をする季節にまんまと乗り遅れた僕は、それはもう絶望的に、これまでにないくらいの勢いで体調を崩してしまった。
その間画面の中でひたすらインクを撒き散らす2週間を過ごしたばかりに僕の筋力はすっかり衰え、騎虎の勢いで迫り来る師走を前に余談を許さない状況になっている。
片手で荷物を持つのがしんどいという理由でどこへ行くにもリュックサックを背負うようになったというのだから、これが冬眠前の熊だったらさしあたり死をも覚悟していたところだろう。
22歳の若さで既に体は老いを感じ始めているわけだが、近頃というものの思い出を回顧することが増えたような気がして、どうやら心にまで老いが進行しているようである。
僕が崇敬するデンマークのロリコン哲学者、セーレン・キルケゴールは言った。
"青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている。"
ロリコンである彼にとって老人という概念がはたして僕の持つそれと一致しているかどうかは不明であるが、おそらくこれはそういう年齢とか見た目とかの話ではないことくらいは哲学に何の造詣もない僕にでも理解できる。
ちなみにこのキルケゴール、ロリコンである以上に生粋のメイドオタクでもあり、メイド王国デンマークを夢見た彼は、軍隊を鍛える暇があったらメイドの調教をしろなどという暴論に始まり、メイドの肌の色つや質感や体つき、服装に他にもあれやこれやと気持ち悪いことを延々と語ってくれている。
彼のように欲望に忠実になどと言ってしまっては畏れ多いが、時の流れに逆らえない体を前にせめて心だけは若くあれと願う今日この頃である。
ところで、僕が全国のイカ人間たちとナワバリ争いをしながら寝込んでいる間、ずっと不満に思っていたことがある。
どうして僕の家には美少女がいないのだろうか。
一人暮らしで体調を崩すというのはどうにも心細い。そんなとき美少女が付きっきりで看病でもしてくれたら、千年の病も一晩で治るというものだ。幼なじみとか彼女とか、形はなんでもいい。とにかく一家に一人美少女がいるべきだという結論に反駁の余地はない。
しかしどうしたものか、この荒廃しきった世の中にあって法律で設置を義務付けてもいいくらいの心の拠り所である美少女というものが、僕の家には存在しないのである。
僕は世の不公平さに絶望した。
同時に、鳥に生まれながら翼をむしり取られたみたいな人生をこれまで散々と送ってきたのだから、そろそろ心にぽっかりと空いてしまったこの穴を埋め合わせてくれてもいいのではないかと神に許しを請うのである。
そういうわけで、突然我が家に美少女が顕現するなどというファンタジックでファンタスティックな展開に胸を膨らませながら家に帰る毎日を過ごしているのだが、一向に美少女降臨の気配はない。
いやはやこれはいかにと悩みつつも、ある日テレビでやっていた映画を見てなるほど納得した。
青白い光に包まれながらゆっくりと舞い降りる美少女をだきかかえた少年は、後に決死の覚悟で天空の城を目指すほどの勇気の持ち主だ。美少女の降臨は、美少女をしっかりと受け止めることのできる器量を持った人にしか訪れないということなのだろう。
理不尽なオタクの罵声に屈してしまうほどの僕ではせっかくの美少女を持て余してしまう。
それからというものの、少しでもあの少年に近づこうと朝早く起きて食パンに目玉焼きを乗せて食べてみたり、反対にギリギリに起きて40秒で支度をしてみたり、美少女を受け入れる準備に余念がない。
ただ、僕はここで再び重大な事実に気づいてしまう。
機械工の仕事でばりばりに鍛え上げられたあの少年、そういえば舞い降りる美少女を随分重たそうにだきかかえていた。
さて、仮にこの調子で美少女顕現の夢が叶ったとして、もしその美少女が空から降ってきでもしたら、イカ人間の集いで衰えきった僕の筋力でそれを受けきることができるだろうか。
いや、断じてできない。
このままではせっかく神に仰せつかった美少女保護の使命を無下にしかねない。どうにかしてこのだらしない体に鞭を打つすべはないものか。
そんなことを考えたり考えなかったりで、僕は近所のトレーニング施設でボルダリングなる競技に興じている。
正確にはこの前の日曜日の話なのだが、いかんせん筋肉痛が酷かったもので、この3日間スマホを手に取ることさえままならなかったのである。
そんなこんなで美少女と生活を共にする夢はいまだに叶っていないわけだが、いつか必ずやと希望だけは忘れずに毎日を過ごしている。
僕が崇敬するデンマークのロリコン哲学者、セーレン・キルケゴールは言った。
"青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている。"
僕はまだまだ若くいられるかもしれない。