明日のうんこがめちゃめちゃ臭い可能性

 

その日の僕は、今日は夜更かしができるぞと浮かれ調子だった。仮に翌日が休日ではなかったとして素直に床に就いていたかと聞かれると少々疑問は残るけれど、後ろめたさなく起きていられるという点でやはり気持ちは違ってくる。

 

創立記念日

 

大抵の学校には存在するだろうから、何も得をしているわけではないのだけれど、その日だけはなんとも形容しがたい優越感に浸れる特別な日。

 

かく言う僕もその優越感に完全に取り込まれ、普段興味のかけらもないサッカーの試合にエキサイトし、ポテトチップスを口に放り込んではゲームに熱中するのんきな夜を過ごしていた。

 

というか、気づいたら朝だったんだけどね!

 

そんなこんなで眠くなったら寝るなどという本能任せな最低で最高の休日が幕を開けるわけだ。このまま昼過ぎまで寝て、なんとなく起きてなんとなくゆったり過ごす。

 

そんな優雅な一日が僕を待っている......はずだった。

 

僕が眠りについてから何時間も経たない頃、キュイーンキュイーンというどこかで聞き覚えのあるひたすら不快な高音に目を覚ますと、驚いたことに、幼少期地底人になるんだと意気込んで必死に地ならししてもびくともしなかったあの大地が、ものすごい勢いでゆれ動いているではないか。

 

いやはやこれはいかに。

 

素敵な休日の開幕に新手の祝福か。それともいつまで経っても創立記念日が休みにならないことに業を煮やした某大学の学生たちの反逆か何かか。

 

寝ぼけまなこでそんなことを考えながら、迫り来る恐怖にゆれが収まるまで体は硬直し続けた。

 

というわけで、震源が近すぎてまったく意味を成さなかった緊急地震速報と最高級の睡眠を妨げた大地に腹を立てながら二度寝を決め込み、休日を仕切り直したのがきのうの話。

 

 

そして一夜明けた今日、ひとつの疑問が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

うんこしてるときに被災したらどうしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回こそ、僕の住んでいる地域では鉄道がすべてストップする以外に生活に影響が出るような被害はなかったわけだけれど、もし甚大な被害が出るような地震をダイレクトに受けたら、の話だ。

 

もしうんこしてるときに大地震が起こったら、目まぐるしいゆれにうんこが暴れてお尻がうんこまみれになるかもしれないし、肛門にうんこを携えたまま飛び上がったお尻が着地点を間違え便座とお尻のあいだでうんこをペースト状にしてしまうかもしれない。

 

どっちにしろお尻がものすごく汚れるのは免れない。いやだ。

 

そして何より僕の最大の懸念は、地震のときこわいものランキングをとったら必ず上位に食い込んでくるであろう、断水だ。

 

無事うんこを産み落としたあとも、僕たちの戦いは終わらない。

 

断水してしまった場合、うんこを流せるのはタンクに溜まっている水のぶん1回きり。はたしてその1回を今使ってしまっていいのだろうか。

 

無論、うんこをそのままにしておくというのも不衛生極まりないけれど、当然明日もうんこはするだろう。仮に今最後の水を使ってしまったとして、明日のうんこがめちゃめちゃ臭かったら?

 

部屋に漂う激臭に耐えながらいつ尽きるかもわからない食糧を日々消費し続ける苦痛は想像にたやすい。

 

ここで僕は、うんこを放置したくない気持ちと明日のうんこがめちゃめちゃ臭い可能性を天秤にかける。

 

正直言うと、すぐには結論は出なかった。

 

うんこを放置したくないからと言って今流してしまうと結局明日のうんこを放置することになるから、明日のうんこがめちゃめちゃ臭い可能性をとるのが一見正しいように思えるが、そうすると今度はあさってのうんこがすさまじく臭い可能性が浮上してくる。

 

これを繰り返していくと、帰納的にうんこを流すことができなくなり、せっかくの1回ぶんの水が無駄になってしまう。

 

 

実に難題だ。

 

 

苦悩の末僕が導き出した答えは、毎日うんこを流せるだけの水を確保しておくこと。

 

そういうわけで近所のスーパーにいったんだけれど、完全に出遅れた。僕のうんこを流すべく生まれた水は防災意識に目覚めた近隣住民によって買い占められ、売り場からめっきり姿を消していた。

 

やれやれ、うんこを流したいという気持ちはみんな同じみたいだね。

 

 

そういえば、遠足の最中に被災した7年前は、なんとか学校に戻ろうというバスの中で、窓にお尻をくっつけて通りすがりの人を驚かせている友人を見てゲラゲラ笑っていた気がする。あの頃から何ひとつ成長していない。

 

大人になるってなんだろう。

 

肛門を貫く剛剣の伝説

社会の、あるいは小さなコミュニティにおいても、その秩序を維持するために構成員の従うべきルールを設定するということは、ある程度必要なことであろう。

 

たとえばスポーツであれば、試合の効率化、競技の差別化、選手の安全確保などさまざまな目的に沿ってルールが設けられている。

 

サッカーボールを手で触っていいのであれば、それはハンドボールの試合を見ているのと変わらないし、野球の走者が相手チームの選手に所構わずタックルをしていいのであれば、守備側からしたら危なくて仕方がない。

 

もっと大きなコミュニティに目を向けてみたらどうだろう。

 

社会においては、慣習が、あるいは目に見える形としては法律やそれに準ずるものが、長い年月をかけて構築され、僕たちの暮らしを、秩序を保ってくれている。

 

もちろん、法律なんて大それたものばかり考えなくても、たとえば学校という小さな社会にさえルールは存在する。

 

一人ひとりがルールを守ることで、社会全体として秩序が保たれ、一人ひとりの快適な生活が担保される。ルールというのは、守って然るべきものなのである。

 

しかしながら、ルールに従順になりすぎるというのも考えものだ。

 

一分一秒を争うような事態のときに、まったく自動車のくる気配のない細い道路で歩行者用赤信号を素直に守る人。

 

授業中の退室を禁止したばかりに、体調不良を訴え苦しんでいる生徒に対して授業終了まで耐えるよう命じる教師。

 

男子校で貸し切り、男子更衣室に人が溢れかえっているにも関わらず女子更衣室を開放しない運動場の管理人。

 

「ルールだから」という言葉で片付けるのは簡単だが、こうしたいわば頭のかたい行動というのは、時に周囲に不都合を生じさせる可能性があることを忘れてはならない。ルールを守ることは重要であるが、秩序を乱さない程度の柔軟性というのも、社会には要求されている。

 

さて、かたくて困るのは何も頭ばかりではない。

 

 

そう、うんちである。

 

 

今朝の僕は実に快便であった。

 

昨日食べたものをいまいち思い出せないのが残念であるが、たいそう豪快に排出されたあの姿を、一生忘れることはないだろう。

 

しかし、ここでひとつ問題が発生した。

 

なぜだか今日のうんちはやたらとかたかったのだ。

 

たとえるならそう、剛剣のごとく。

 

ふんばればふんばるほど肛門に痛みが走る。鬼の形相で直腸から褐色のつるぎを引き抜く僕の姿は、かつて名を馳せた戦国武将の誰よりも勇ましい。

 

赤く染まる刀身が彼らの強さの証。それは僕にとっても同じことだ。文字通り断腸の思いで産み落とされた伝説の剛剣を前に、僕は誇らしささえ感じていた。

 

そしておしりを拭いたトイレットペーパー、その変わり果てた色を見て思う。

 

 

 

これが......切れ痔か............。

 

 

 

現代を生きる武将の誇りは、どうにも格好がつかないらしい。

アンハッピーバースデー

1月というのは、心機一転何か新しいことを始めたり、あるいは今まで中途半端になってしまっていたことに改めて気合を入れなおしたりするにはこれ以上にないくらい都合のいい時期だ。

 

かくいう僕も、2018年からはがんばろうなどというこれまで何百回と言ってきたような言葉を引っさげて新年を迎えたわけだが、どうにも不思議な初夢を見た。

 

ひょんなことから何らかのマラソンの代表に選ばれてしまった僕は、いやいやながらグラウンドで練習をしていた。

 

するとどうだろう、僕とそっくりな、いや、そっくりというか、もはやもうひとりの僕と言うべきか、そんな人物が狭い肩幅をせいいっぱいふくらませて颯爽とグラウンドに入ってくるではないか。

 

「おやおや、どうしてこんなところに僕がいるんだい?」

 

待てよもうひとりの僕。その喋り方は鼻につくからやめろ。それとまずは僕が僕以外に存在していることに驚け。いろいろおかしいぞお前。

 

「お、やってるやってる。おれも混ぜてくれよ」

 

そう思う間もなく背後から響く別の声、これまた聞き覚えのある声におそるおそる振り向くと、期待どおり、いや、むしろ予想がはずれることを期待していたのだが、やはり見覚えのある人物がにやにやと気持ち悪い笑みを浮かべて佇んでいた。

 

ああ、もういい加減にしてくれ。どうしてよりにもよって僕というどうしようもない人間がこんなにも増殖しているんだ。せめてそのとてつもない猫背をなおしてからきてくれ。

 

そんなこんなでその後も増殖を続けた僕なのだが、しばらくして女神の降臨である。

 

「どうやら精神の分離が起こっているようだな」

 

のっけから意味がわからないがとりあえず聞こう。続けてくれ。

 

「ヒトには感情を司る6つの色がある。喜の白、怒の赤、哀の水色、楽の黄色、勇気の緑、諦めの青」

 

そういえばここにいる僕らはみんなハチマキの色が違うな。僕は黄色......楽か。いやでも......。

 

「6つの色が1つになったとき、ヒトはこれまでにない力を発揮し困難を乗り越えることができる。元に戻りたかったらとにかく目の前の壁に助け合い尽力することだなフホヒヒヒヒヒ」

 

そう言い残して女神は燃え尽きるろうそくの炎のごとく姿を消した。

 

ここにいる僕らの思いはひとつであろう。女神は6つの色が1つになったときと言った。しかしどう考えてもここには僕が5人しかいないのだ。そして誰もがあと1人の僕がここにいない理由を即座に察した。

 

5人の僕が口を揃えて叫ぶ。

 

「青諦め早すぎ!!!!」

 

そんな目覚めの正月。

 

これは何か将来に漠然とした焦燥を感じる僕の深層心理からのメッセージ、あるいは神様からのもっとがんばれよという警告なのだろうか、とにかく気を引き締めていくぞと誓ったのがつい2週間前の出来事なのだが、いやはや油断した。

 

先の誓いを立てた数日後、誕生日を後輩女子と一緒になどというヒキオタニートにあるまじきミラクルラッキーデーを過ごしてしまった僕は、浮かれ調子のまま、その日がレポート提出日だったことも、次の週に期末テストがあったことも、すべて忘れて、のんきな毎日を送ってしまった。

 

楽しかったからOKというのが本音なのだが、無論、いくつかの単位は闇に葬られたわけで、それにもめげず、餅を絵に描くはらぺこ坊主よろしく粛々と試験勉強の計画を立てている現在である。

 

平成が終わるまでに卒業できるか、僕の闘いはこれからが本番だ。

誇り高きぼっちの週末

街中が活気づき、どこからともなく楽しげなはなうたが聞こえてくる季節がやってきた。こんなに寒いというのに、毎年毎年よくもまあたった一夜のためにこんなにも盛り上がれるものだ。世間は完全に浮き足立っている。

 

そんな流れに乗り遅れてしまったのだろうか、僕なんかの週末の予定を聞いてくる愚か者どものラインは未読のまま、年末のスケジュールに思いをめぐらせる。

 

無論、朝から晩までバイト漬けの僕にクリスマスを楽しむ権利などあるはずもないのだが、それでなくても乗り気にならないのが引きこもりのさがというものだ。

 

だって、街に繰り出してみれば、目に入るものはカップル、カップル、バカみたいに騒ぐ集団を挟んでまたカップル。僕みたいにぼっちでいる人なんて誰ひとりとしていやしないじゃないか。

 

キリストのキの字も考えない日本のクリスマスは、いわばリア充カーストを浮き彫りにする最高級に排他的で差別的で、残酷なイベントなのだ。

 

僕はそういう反社会的な催しにどうにか一石を投じたいわけで、この時期は極力部屋から出ないようにしているし、たまに出かけた先がきらびやかに彩られたクリスマス仕様になっていようものなら、その店に対する非売運動をひそかに行うなどの抵抗をしている。

 

世間はこの小さなデモンストレーションに気づく素振りもないが、どうやら僕の生活はじわじわとその影響を受けているみたいだ。

 

今日だってひさびさに学校に行ったのだが、あまりにひさしぶりだったからか、入る教室を間違えてしまったのだ。見たことのない先生が聞いたことのない内容の話をしていて、それなのに僕は教室を間違えていることにしばらく気づかなかった。

 

さすがにこれはいかんと猛省はするものの、やはり外に出るのは億劫に感じてしまう。これ見よがしに張り巡らされた電飾は、普段太陽の光さえろくに浴びていない僕にとっては目が痛いほどに明るすぎるのだ。

 

こんな風に思い始めたのはいつ頃からだったろう。僕は比較的長いことサンタクロースの存在を信じていた部類の人間であるが、そんな純粋な少年が随分と捻くれてしまった。

 

そういえば、小学生の頃はサンタクロースいるいない論争がよく繰り広げられていた気がする。

 

いない派の意見はだいたい「サンタクロースの正体は親だ」というもので、それにまともに反論ができる者はいなかったから、この説が有力視される実に現実主義的なクラスであったが、当時の僕はそれに少しの不満を抱いていた。

 

この論争にはあるバイアスがある。

 

「親が部屋にプレゼントを置くのを見た」

 

「サンタクロースがいたとしたらそれは不法進入だ」

 

「すべての子どもにプレゼントを届けるなんて手がまわるはずがない」

 

この手の主張は、仮にサンタクロースの存在を認めた場合、サンタクロースが直接家にプレゼントを渡しにまわっていることを前提に話が進んでしまっているのだ。

 

サンタクロースいる派だった僕の仮説はこうだ。

 

まず、サンタクロースというのは特定の個人を指す言葉ではなく、クリスマスに子どもたちへプレゼントを届ける仕事をしている人の総称である。

 

彼らは直接家にプレゼントを渡しにいくことはなく、親からの注文を受け、近所の店に取り寄せあるいは自宅への郵送等の業務を行う。

 

専門的に受注発注業務を行うことで、どこの店に行けば目当ての商品が売られているのかわからない親でも安心してプレゼントを探すことができる。

 

その利便性の対価として仲介手数料をもらい、それによって利益を計上する。

 

サンタクロースいない派の主張は、プレゼントを手にした親が子どもに届ける部分しか見えていないことに起因すると考えられる。

 

また、繁忙期の12月はもちろん、他の季節にも随時注文を受け付けており、クリスマス以外にもサンタクロースはプレゼントを届けてくれる。ただし、サンタクロースのサービスは子どもひとりにつき年一回と利用回数が定められており、そのためクリスマス以外にこれを利用する人はほとんどいない。

 

これによって12歳の僕は中学受験を理由にサンタクロースが2か月ほど遅れてきた理由を説明した。

 

その後情報化社会に飲まれた僕は、数年もしないうちにそんな営利主義的なサンタクロースなど存在しないことを悟ったわけだが、高度にインターネットが発達した今の時代、子どもに夢を見させ続けるのも大変だなあと感慨にふけっている。

 

思えば、斜に構えたものの見方をするようになってしまったのは、サンタクロースの非存在に絶望してからだったかもしれない。子どもの幻想を無残に打ち砕くこの世界を嘆きながら、先の愚か者どものラインにそっと既読をつける。

 

僕は誇り高きぼっちなのだ。

 

 

学園祭で便秘をしないための心得

「そんな日もあったな」

 

過去を振り返る際の最強の言葉だ。

 

思い出というのはどうして美化されるのだろう。

 

口を開けばつらいしんどいと弱音を吐いていた時期だって、何年も経ってしまえば面白いようにその頃を良き過去として回顧する。

 

そうして昔は良かったと懐かしみ今を嘆く時だって、何年もすればまた新しい過去として心の中で輝きを増していく。

 

きっといつだって今こそが人生で最高の瞬間なのに、今を生きることに必死すぎてそのことに気づかない。必死だから傷ついて、必死だから心が折れそうになることだってある。

 

そうやって全力で作った今だからこそ、いつしか宝石みたいにキラキラした過去になっていくのだろうか。

 

26人の仲間たちで学園祭を作り上げた三年前のあの一週間は、たった26人で巨大な祭りをまわしていくにはあまりに長く、26人で過ごした二年間の集大成をすべてぶつけるにはあまりに短い一週間であった。

 

正直当時は早く終われとばかり思っていたのだけれど、それでも全力で祭りをまわしたし、全力で祭りを楽しんだ。

 

僕たちはいつだって裏方だ。僕たちの仕事は全力の学生を全力でサポートすること。主役にはなれない。そんな立場ではあったけれど、僕たちは、少なくとも僕は、主役として活躍している誰よりも祭りを愛していた。

 

そんな風に持てる力のすべてを注いだ祭りだから、終わった直後は「やっと終わった、二度とやるもんか」とか言ってみても、二度とできないあの一週間は今となっては大切な思い出だ。

 

去年や一昨年は全力の学生を全力でサポートする後輩を全力でサポートする存在。意外とやることは多かった。

 

そして今年、初めて何もやる必要のない学園祭が訪れた。当然祭り自体を楽しみはしたのだが、自由すぎる一週間は、かつてのような一生懸命さとか儚さとかそういうのがまったくない無機質なものであった。

 

陰で活躍する後輩たちを見て思う。

 

「案外、僕たちの方が主役だったのかもしれないな」

 

珍しくまじめな話をつらつらと書いてしまったが、言いたいことはひとつだけだ。

 

後悔だけはしたくない。

 

うんちをしたいときは全力でうんちをする。我慢して我慢して、便秘になってしまってからトイレに行ったのではもう遅いのだ。

 

つらいときも、苦しいときも、いつか必ず、

「そんな日もあったな」

と笑える日がくるように、僕は今を全力で生きていく。

けつ毛の出番はいつの日か

情けは人の為ならずとはよく言ったものだ。

 

人にかけた情けはやがて巡り巡って自分の恩恵として返ってくるのだから、人には親切にしろという意味の言葉らしいが、やれやれ油断した。どうやら返ってくるのは情けばかりではなかったらしい。

 

思い返すと、なかなかに舐め腐った人生を送ってきた。

 

人をおちょくることにどうにも表現しがたい喜悦を感じていた若かりし頃の僕は、ベルトから肉のはみ出している数学教師をハミルトンと呼んでみたり、スピードを重視するあまり作業を台無しにした先輩を神速と揶揄してみたり、妙なあだ名をつけることが生きがいにさえなっていた。

 

ところで、僕は毛がのびるのが早いことで定評がある。髪や髭など目に見えるところはもちろん、鼻毛なんかもしかりである。

 

特段鼻毛に関しては、大学生になってからというもののそののびる速度は指数関数的に伸び上がり、成長の早さが自慢の竹をも感服させた。

 

ただ、竹に敬服されたところでこちらには何のメリットもないわけで、代わりに彼の近くに生えていたタケノコをおいしくいただいたのだが、子どもを食われたとあってはさすがの竹もご立腹なようで、それ以来竹とは成長速度を競うこともしていない。

 

言うなれば喧嘩別れというものであるが、二度と帰るかと意地を張っているうちに、彼の住む竹藪はきれいに整地されてしまっていたのだ。

 

それで激しい後悔と哀惜の念に苦しむなどしているあいだ鼻毛のケアを怠っていたのだが、そのつけがついに回ってきた。

 

ある日の僕は、鼻の穴に髪の毛を差し込んで遊んでいるのだろうかと疑うほどに大胆に鼻毛を飛び出させていた。しかも両側からである。

 

無論、そのことに僕は気づいていない。

 

さて、小さい子どもというのは実に素直である。思ったことをすぐ口に出してしまう。鼻の両穴から最高級の毛を覗かせている怪しい男とすれ違う子どもが抱く感想はただひとつしかない。

 

 

「うわ、鼻毛マンだ」

 

 

そう、僕は鼻毛マンなのである。

 

実に屈辱的なあだ名だ。こんな辱めを受けたのは僕が高校1年生のとき、いつまでたっても名前を覚えてくれない英会話の先生にヒゲというあまりに捻りのない命名をされて以来のことである。

 

それにしても僕は体毛にご縁があるらしい。

 

ヒゲ、鼻毛マンときたら次はケツゲニストとかだろうか。けつ毛は確かに生えているが、生憎僕よりも圧倒的なジャングルを誇るケツゲニストを僕は知っているので、このあだ名はその人のためにとっておいてほしいところだ。

 

そんなこんなで情けは人の為ならずというか、情けではなかったけれども、巡り巡ってというのを想定外の形で痛感したもので、聖人でありたいと願うばかりの今日この頃である。

 

うんこも推論もほどほどに

たとえば、僕が「晩ごはんどうしようかな」と口にしたとする。それを聞いたある人は思うだろう。

 

「この人はおなかがすいたんだろうな」

 

またある人は、こう思うかもしれない。

 

「沈黙に耐えかねて何か喋ろうとしたんだろうな」

 

言葉の真意というものは、その言葉を発した本人にしかわからない。本人でさえわからないことだってある。

 

聞き手がそれを正確に受け取るなんてのは、日本人が漢文を読み解くほどに難しい。なんとなく意味はわかりそうにも思えるが、それが正確にわかるかどうかといえば、やはり答えはノーである。

 

もちろん運良く正解することだってあるかもしれない。しかしそれはやはりあくまで、運でしかないのだ。

 

それでも昨日はあの場にいたすべての人間が、僕の言葉の真意を見事言い当てることができただろう。

 

ただ、一人を除いてね。

 

それほどまでに状況はわかりやすかった。

 

事の発端はグループワークの授業の最中だ。くじ引きで班が作られ、初めましての挨拶から始まり各々持ち寄った資料を統合して一つの資料を練り上げていく。

 

引きこもり体質の僕が最も苦手とするタイプの授業だが、どういうわけかうちの学部では一般教養でこの手の単位を取るのが必須となっている。

 

さすがにこれ以上大学にお世話になるわけにもいくまいと重い腰をあげてみたはいいものの、いざ教室に行ってみるとどうしてもやる気にならない。

 

グループワークをやると聞いて即座にその場を立ち去ろうかと悩んだほどだが、これも単位のためだ。負のオーラを悟られないようほどほどのテンションで穏便に済ませよう。

 

五人一組になりまずは自己紹介。

 

「○○学部一回生の△△です」

「××学部一回生の**です」

 

おいおい勘弁してくれ。二回生はいないのか。

 

もちろん、一般教養の授業に三回生以上がいることなんか初めから期待してはいない。だがせめて二回生はいてもいいだろう。ああ、くじ引きの神はあまりにも無慈悲だ。これでも初詣に引いたおみくじは大吉だったのだが、一体どこでその運を使い果たしたのだろう。

 

「◻︎◻︎学部一回生の☆☆です」

「◎◎学部一回生の▽▽です」

 

結局二回生はいなかった。

 

僕の自己紹介?

 

それはもちろん、回生は隠した。出席カードも裏向きにしてね。

 

この状況で五回生ですなんて胸張って言える留年生なんているだろうか。いや、もしかしたら誇りを持って留年した人なら言えるかもしれない。ただそんな人は五回生の時点で一般教養の単位なんか残していないはずだ。

 

そんなこんなで心労激しく自己紹介が終わり資料のまとめに入った。ある程度話がまとまり出すと、班員のキモオタ風味の若僧がハンドルを失ったフォーミュラのごとく暴走を始める。

 

その男、やる気は十分。むしろありすぎるくらいだ。しかし事もあろうか、グループワークにも関わらず何の相談もなしにたった一人で資料をまとめ出したのだ。

 

やる気の空回りというか、僕とは別の意味でコミュニケーション能力に難があるのだろう。本人はとても楽しそうだ。

 

班員はその間やることもなくただうつむいているだけ。他の話題で会話が弾むほどに積極的な人がいれば話は別だったのだが、そんな人もおらず場の空気はお通夜状態だ。

 

今後深く関わることもないこいつらのために場を取り持つような義理はなかったのだが、このキモオタはまさか自分が場を仕切っているつもりなのだろうか、得意げな表情がどうにも気に食わなかった。

 

ここは僕がピエロになるしかないか......。

 

沈黙にしびれを切らした僕はピカピカの一回生たちと雑談することを決意する。

 

しかし困ったことに、何を話していいかわからない。ただでさえこういうのは苦手だというのに、四つも歳が離れているとあればジェネレーションギャップもそこそこにあるだろう。

 

うーん......。

 

あ、そうだ、これ五限の授業だしこのあとたぶんみんな晩ごはん食べるんだろうな......。

 

よし。

 

「晩ごはんどうしようかな」

 

今から考えると玉突き事故を起こしてもおかしくないくらい意味のわからない切り出しだったが、なんとかこの後勘違いキモオタの作業が終わるまで雑談で乗り切ることができた。

 

やれやれ、こんな役回り二度とごめんだ。僕なんて部屋のすみっこにうずくまって荷物と間違われるくらいが丁度いい。

 

さて、答え合わせをしよう。

 

「晩ごはんどうしようかな」

 

この言葉の意味、もう簡単だろう。

 

昨日は昼に食べたラーメンが妙におなかにきていたからね。この言葉を発した僕の真意はこうだ。

 

 

 

「ごはん食べる前に一回うんこしときたいな」

 

 

 

少し簡単すぎただろうか。まあ、仮に正解できなかったとしても案じることはない。もとより他人の気持ちを推し量るというのは困難を極める行為なのだから。

 

しかしそれに甘んじて他者に気を配ることをないがしろにしてばかりいると、今回の話のキモオタのように周りからいわゆる自己中のように映ってしまうかもしれない。

 

何事もほどほどがいいというわけだ。