肛門中点定理による大便地獄の定理の証明
朝の空気が氷のように冷たい。ついこのあいだまで半袖シャツを汗で濡らしていた気がするのに、気がつけばこのあり様である。まったく心地の良い秋というのはどこに行ったらあるのだろうか。もしかしたら秋というのは大昔の幻想で、現代の地球は春、夏、冬の三つしか季節がないのかもしれない。
ところで、冬につらいことといえば、うんちである。
恵まれた家庭であればトイレもあたたかいだろうが、うちのトイレはとにかく寒い。そんなトイレで不幸なことに、とどまることを知らないうんちをしてしまったのだ。
早くこたつに潜りたいとぶるぶる震えながらもまったく止まらないうんち。僕は恐怖を覚えた。このままうんちをし続けることでいつの日か凍死してしまうのではないかと。
そのときに考えたことを、うんちと共にここに垂れ流しておく。
命題
一度うんちをし始めれば、人は永遠にうんちをし続ける。(大便地獄の定理)
証明
うんちの先頭が肛門の出口に差し掛かった瞬間を時刻t=0とし、時刻tにおける肛門の出口からうんちの最後尾までの長さをL(t)とする。ここで、L(0)はうんちの長さである。
肛門の出口を点Aとして、AM=L(t)/2となるような動点Mを肛門より内側のうんち上にとる。つまり、点Mはいまだ外に出ていない部分のうんちの中点である。時刻tにおける線分AMの長さをS(t)とする。
異なる2つの時刻t(n),t(n+1)が、S(t(n))=L(t(n))-L(t(n+1))を満たすとする。ただし、t(0)=0である。
(ⅰ) n=0のとき
S(t(0))=S(0)=L(0)/2
L(0)はうんちの長さだから、L(0)>0
したがって、S(t(0))>0
(ⅱ) ある自然数kがS(t(k))>0を満たすとき
S(t(k+1))=L(t(k+1))/2=(L(t(k))-S(t(k)))/2=S(t(k))/2>0
(ⅰ)(ⅱ)より、すべての自然数nがS(t(n))>0を満たす。
これは、うんちの中点が肛門の出口に差し掛かったとき、新たな中点をうんち上にとることを無限に繰り返すことができることを表す。(肛門中点定理)
さて、うんちの最後尾は常にうんちの中点よりも後ろに存在するわけだが、無限にうんちの中点をとることができるということは、うんちの最後尾はどれだけ中点をとっても肛門を脱することができないため、うんちが無限に肛門の中を彷徨い続けることを表す。
かくして題意は示された。
さて、こうして世にも恐ろしい大便地獄の定理が立証されてしまったわけだが、安心してほしい。これは古代ギリシャの自然哲学者ゼノンがピタゴラス学派を批判するために提唱したパラドックスのうちの一つを応用したものである。
したがって、大便地獄の定理はまったくのでたらめであり、現に僕はこうして長い長い大便の旅から生還している。
明日からも気兼ねなくうんちができると思うと、なんだか心があたたかくなってきた気がする。今年の冬もなんとか乗り越えられそうだ。
自然数に対するうんち的アプローチ
人間というのはときに自らの幸福に盲目的になってしまう生き物だ。今自分が置かれている環境にありがたみを感じることなく、ないものばかりに目を奪われ自らを恵まれていない、不幸であると錯覚する。
当たり前のことを当たり前だと思わないこと。それが幸福への鍵になるかもしれない。
さて、一般的には当たり前と思われていることに目を向けるというのは科学の場面では頻繁に行われていることである。
その代表例としてあげられるのが1+1=2という小学生でもわかる実に簡単な計算式だ。
初等教育では自明に扱われているが、ユークリッド以来の哲学的見地からすれば、公理とは言えないこの数式は論理的に明らかにされるべき命題である。
今回は皆さんにも馴染み深いうんちを使ったアプローチで、この数式の証明の概観をここに記したい。
まず、自然数は以下の性質を満たすものとする。
(α)自然数うんぽが存在する。
(γ)うんぽはいかなる自然数の後者でもない。
(ε)うんぽがある性質を満たし、ある自然数がその性質を満たせば後者の自然数もその性質を満たすとき、すべての自然数がその性質を満たす。
(β)について、自然数うんこの後者の自然数をうんぽこ(うんこ)と表記する。
また、(δ)は後者の自然数が同じならばもとの自然数も同じであることを表す。
任意の自然数ウンコ、うんこについての関数うんち(ウンコ,うんこ)が、
うんち(ウンコ,うんぽ)=ウンコ......(A)
うんち(ウンコ,うんぽこ(うんこ))=うんぽこ(うんち(ウンコ,うんこ))......(B)
を満たすとき、ウンコとうんこの和を表す式ウンコ+うんこを、うんち(ウンコ,うんこ)=ウンコ+うんこで定義する。
さて、この定義はしばしば自明のように扱われるが、関数うんちの一意存在性については議論が必要である。
うんちとは異なる関数ウンチ(ウンコ,うんこ)が、
ウンチ(ウンコ,うんぽ)=ウンコ......(C)
ウンチ(ウンコ,うんぽこ(うんこ))=うんぽこ(ウンチ(ウンコ,うんこ)......(D)
を満たすとする。
(A)(C)より、
うんち(ウンコ,うんぽ)=ウンチ(ウンコ,うんぽ)
ある自然数ウンポがうんち(ウンコ,ウンポ)=ウンチ(ウンコ, ウンポ)を満たすとき、
うんぽこ(うんち(ウンコ,ウンポ))=うんぽこ(ウンチ(ウンコ,ウンポ))
(B)(D)より、
うんち(ウンコ,うんぽこ(ウンポ))=ウンチ(ウンコ, うんぽこ(ウンポ))
以上より、すべての自然数の組(ウンコ,うんこ)についてうんち(ウンコ,うんこ)=ウンチ(ウンコ,うんこ)が成り立つ。
これで一意性は示されたわけだが、 存在性についてはもっと厄介である。その準備として、 以下の条件を満たす関数うんちっち(ウンコ,うんこ)を定義し、和の交換律について議論する。
うんちっち(うんぽ,うんこ)=うんこ......(E)
うんちっち(うんぽこ(ウンコ),うんこ)=うんぽこ(うんちっち(ウンコ,うんこ))......(F)
つまり、関数うんちっちはうんちの(ウンコ,うんこ)を(うんこ,ウンコ)でおきかえたものである。
(A)より、
うんち(うんぽ,うんぽ)=うんぽ
ある自然数ウンポがうんち(うんぽ,ウンポ)=ウンポを満たすとき、(B)より、
うんち(うんぽ,うんぽこ(ウンポ))=うんぽこ(うんち(うんぽ,ウンポ))=うんぽこ(ウンポ)
したがって、すべての自然数うんこについてうんち(うんぽ,うんこ)=うんち(うんこ,うんぽ)が成り立つ。……(G)
ある自然数ウンポが、うんち(ウンポ,うんこ)=うんちっち(ウンポ,うんこ)=うんち(うんこ,ウンポ)を満たすとき、(B)(F)より、
うんち(うんぽこ(ウンポ),うんこ)
=うんちっち(うんぽこ(うんこ),ウンポ)
=うんぽこ(うんちっち(うんこ,ウンポ))
=うんぽこ(うんち(ウンポ,うんこ))
=うんぽこ(うんち(うんこ,ウンポ))
=うんぽこ(うんちっち(ウンポ,うんこ))
=うんちっち(うんぽこ(ウンポ),うんこ))
以上より、すべての自然数の組(ウンコ,うんこ)についてうんち (ウンコ,うんこ)=うんちっち(ウンコ,うんこ)=うんち(うんこ,ウンコ)が成り立つ。……(H)
和の交換律が示されたところで、本題の存在性の議論に移る。
(G)より、すべての自然数うんこについてうんち(うんぽ,うんこ)=うんこが成り立つ。
したがって、ウンコ=うんぽのとき関数うんち(ウンコ,うんこ) は存在する。
ウンコ=ウンポで関数うんち(ウンコ,うんこ)が存在するとき、(B)より、
うんぽこ(うんち(ウンポ,うんぽこ(うんこ))) =うんぽこ(うんぽこ(うんち(ウンポ,うんこ)))
ここで、(H)より、
うんぽこ(うんち(ウンポ,うんこ))
=うんぽこ(うんち(うんこ,ウンポ))
=うんち(うんこ,うんぽこ (ウンポ))
=うんち(うんぽこ(ウンポ),うんこ)
であることから、
うんち(うんぽこ(ウンポ),うんぽこ(うんこ))
=うんぽこ(うんち(ウンポ,うんぽこ(うんこ)))
=うんぽこ(うんぽこ(うんち(ウンポ,うんこ)))
=うんぽこ(うんぽこ(ウンポ),うんこ)
これは、関数うんちの性質(B)を満たす。
また、(A)より、うんち(ウンポ,うんぽ)=ウンポだから、
うんち(うんぽこ(ウンポ),うんぽ)
=うんぽこ(うんち(ウンポ,うんぽ))
=うんぽこ(ウンポ)
これは、関数うんちの性質(A)を満たす。
したがって、ウンコ=うんぽこ(ウンポ)でも関数うんち(ウンコ,うんこ)の要件を満たす。
以上より、すべての自然数の組(ウンコ,うんこ)について関数うんち(ウンコ,うんこ)は存在する。
これで存在性は示された。
関数うんちの一意存在性が示されたので、ここからは簡単である。
和算の定義うんち(ウンコ,うんこ)=ウンコ+うんこより、
うんち(うんぽこ(うんぽ),うんぽこ(うんぽ))=うんぽこ( うんぽ)+うんぽこ(うんぽ)……(I)
また、(A)(B)より、
うんち(うんぽこ(うんぽ),うんぽこ(うんぽ))
=うんぽこ(うんち(うんぽこ(うんぽ),うんぽ))
=うんぽこ(うんぽこ(うんぽ))……(J)
(I)(J)より、
うんぽこ(うんぽ)+うんぽこ(うんぽ)=うんぽこ(うんぽこ(うんぽ))
ここで、うんぽこ(うんぽ)=1、うんぽこ(うんぽこ(うんぽ))=2と定義すれば、1+1=2が得られる。
......。
............。
........................。
うんちとかいっぱい言いたかっただけですごめんなさい。
シュレディンガーのうんち
物理学の世界は実に難しい。経済学の扱う単純な複利計算にも日々頭を悩ませている僕には到底理解できない領域である。とりわけ相対論と並んで現代物理学の根幹を成すと言われる量子論に至っては、てのひらのしわの数をかぞえていた方が有意義なのではないかと思わせるほどに難解だった。
コペンハーゲン解釈というものがある。
量子の状態はいくつかの異なる状態の重ね合わせで表現され、観測することで初めて観測値に対応する状態に収縮するとする解釈である。
複数の状態を同時に持つということで、僕らの常識などというのはミクロの世界には通用しないのだなあと驚かされるばかりである。
ところで、うんちは汚い。
トイレに浮かぶうんちを激流で流そうものなら、雑菌や何やらが撒き散らされて呼吸するのも憚られる。
この撒き散らしを防ぐ手段として、蓋を閉めてから流すという画期的な方法があるらしい。蓋をすれば雑菌は撒き散らないし、荷物の落下防止にもなる。実に理にかなった対策である。
しかし、待ってほしい。
ひとつだけ、本当にひとつだけ、気がかりなことがある。
まず、蓋のあるトイレを用意して、この中にうんちを一巻き入れる。レバーをひいて水を流したとき、十分な水圧が確保できればうんちは流れるが、そうでなければうんちは流れない。
ここで、十分な水圧を確保できるか否かを量子的に確率解釈できるとする。すると蓋をした状態では、うんちが流れているかどうかがわからず、うんちがトイレに存在する状態と存在しない状態が重なり合った状態であると解釈できる。
これを仮にシュレディンガーのうんちと名付けよう。
さて、うんちがそこに存在し、かつ存在しない。こんなことを許していいものだろうか。
こんなことではトイレに入るたびに「今日はうんちあるかな......ないかな......」とドキドキしながら蓋を開けなければならない。トイレはもっと心休まるところであるべきだ。
ということで、量子論に対する痛烈な批判としてこのシュレディンガーのうんちを提唱するわけだが、それはそうと蓋をしてうんちを流したとしてもどうしても隙間はできてしまうらしい。
隙間が狭いぶん圧力が大きくなってしまうからか、しばらく蓋閉めうんち流しを家のトイレで試してみたところ、トイレの先端部分に瞬く間に黒ずみが生じる結果となった。
それ以来蓋を閉じることをしていない我が家ではうんちが重なり合うことはなくなったわけだが、今日もどこかでうんちが重なり合っていることを考えると、物理は実に奥が深い。
うんちと赤ちゃんの区別がつかない件
眠気を覚ますように頭からシャワーを浴びる。ふと鏡に写ったありのままの自分の姿を見て、僕は絶望した。
最近太ったな......。
誰に語りかけるでもなくつぶやいた言葉が、一人暮らしの狭い浴室に切なくこだまする。
今日も肌寒い。濡れたからだを雑に拭いて、急いで学校の準備をする、そんなある秋の日の話。
ところで、僕はうんちがでかい。一体僕のからだの中のどこにそんなスペースがあったのかと驚愕するほどにもりもり出る。
そんな超健康体の僕だが、ここ最近はどうにもうんちの出が悪いことに悩まされていた。
妊婦のようにぽっこり膨らんだ下腹を見つめ、たぬきよろしくぽんぽこ叩いてみる。一時はついに自分にも中年太りが到来したのかと絶望したものの、中年と呼ぶには十年余り早すぎるのではないか。
そこで僕はある仮説をたてた。
このぽっこりおなかの中には、ここ数日出ていなかったぶんの、とてつもない量のうんちがぎっしり詰まっているのではないだろうか。
そこで便意はないものの便座に座ってみる。
......何も出ない。
いやはやこれは困った。見事なうんちだけが取り柄の僕が便秘ともあれば、残るのはただの留年うんち野郎である。どっちにしろうんちなら変わらないとの意見も見受けられるが、それはそうとこのだらしないおなかをどうにかしたいのだ。
座ってだめなら上から押し出そう。
次に僕がとった行動は、暴食である。新たにうんちを創生してしまえば、旧うんちはたまらず肛門から飛び出してくるだろう。
天才的なひらめきにカツサンドをむさぼり食う。
完食から十数分経った頃だろうか。火山が噴火する前の不気味な地響きのように下腹がうごめきだす。
きた...!
あわててトイレにかけこみ、ズボンとパンツをおろす。便座に腰をかけた次の瞬間...。
ブリュッブリュリュリュドボボボドボドボボボボボボボボボブリブリブリドバーーーーー!!!!!
豪快な音をたてて産まれるかわいいうんちたち。ひさしぶりだね!会いたかったよ!
気になるおなかを見ると、今朝とは見違えるほどにきれいさっぱりへこんでいた。こうして僕の仮説は立証されたのだ。
さて、こうなってくると話は少し複雑だ。
便秘に苦しむ僕のおなかはまさしく妊婦さながらの膨らみ方であった。
よく電車で妊婦さんに席を譲ったらただ太っている人で、ひどく怒らせてしまったなんていう笑い話があるが、太っているのと妊娠しているのくらいはさすがに見分けがつくだろう。
しかし、今回の件、便秘に関しては到底見分けがつくとは思えない。
そこで以下のようなトラブルが想定される。
ガタンゴトン、ガタンゴトン......。
ふと目に入る、おなかをさすってしんどそうに立っている女性。
(あれは......妊婦かな?便秘かな......?)
(おなかをさすっている......。おなかが痛いのか?いや、あの優しいさすり方、そしてあの眼差しはまさしく母の目......。)
(でももし妊婦だと思って席を譲って便秘だったら失礼だよな?)
(いや、きっと妊婦だ!よし......!!)
「あの!!」
「......?」
「便秘さんですよね?この席どうぞ!」
「......」
「......!!」
「どういう意味ですか?」
「え、いやっ、その......」
(言い間違えたーーー!どっちか迷ってたら妊婦と便秘言い間違えたーーーーーー!!!)
「この子はうんちなんかじゃありません!失礼です!!!」
とまあこんな感じである。こんなトラブルを起こせばビンタされること間違いないし、最悪の場合通報される。
さて、この場合妊婦と便秘を言い間違えたことが直接のトラブルの原因になったわけだが、そもそも妊婦と便秘を迷うことがなければ言い間違えることもなかったと考えられる。
このことから、世の妊婦たちが快適に電車に乗ることができるように、妊婦と便秘の区別をつけられるようにする訓練が早急に推し進められるべきだ。
妊婦と便秘の写真がランダムに表示され、それを順番に仕分けしていくゲームアプリの開発などが待たれる。
学校教育に組み込んでもいい。
小学生のうちは妊婦と便秘の区別は難しいだろうから、せめて赤ちゃんとうんちの区別はつくようにしておく。
そして中学高校で本格的な妊婦と便秘の仕分け訓練を受けていく。
妊婦と便秘の区別がつかなければ、今の日本に明るい未来はない。
真夏に肛門がブチギレている
すぐきれるやつというのはどうにも扱いづらい。
ガムテープで遊んでいたらもったいないと言いながら暴力的なまでにきれてくるやつ。
昼食の配膳中に居酒屋ごっこをしていたらうまく聞き取ってもらえずちゃんと言えときれてくるやつ。
面談用に用意してあった机で陰毛の早抜き大会をしていたら掃除しろときれてくるやつ。
今まで理不尽なまでに目の敵にされてきた僕だけれど、今日も今日とてすぐきれるやつに遭遇してしまった。
試験開始まであと五分......。
僕はとても急いでいた。
気持ちとしては今すぐにでも試験会場にいきたい。期末試験、半年に一回の大事な試験なのだ。汗水たらして勉強した努力を、ついに発揮するときがきたと言えよう。
しかし、問題が一つ。僕には今すぐ試験会場にいけない理由があった。
そう、うんこが止まらないのである。
なんかもうモリモリ出る。止まったかなって思っても一拍おいてまたグリングリン出る。勢いで言うとところてんのあの筒のやつにも負けていない。
まさか肛門にうんこを携えながら教室に向かうわけにもいかないので、できるだけふんばって、さっさと出すものを出してしまおうと尽力した。
やっとの思いで出し切ってお尻を拭こうとすると、トイレットペーパーの上に乗っかっているフタみたいなやつがまあかたい。
トイレットペーパーのあの点線状に入ってる切れ目ですぐきれる。いちいちきれる。
いやこんなんお尻拭けへんやん!!
とかツッコみつつもなんとか塊を作ってお尻を拭くと、トイレットペーパーは真っ赤に染まっていた。
いやお前もすぐきれるやん!!
試験前はぴりぴりしてみんなきれがち。そんな教訓を得た炎天下の昼下がりだった。
しゃべるうんちの将来設計
女の子に話しかけたい。
いや、正直女の子じゃなくていい。
でもせっかくなら女の子がいい。
女の子に話しかけたい。
さて、気がつけばまたテストテストの地獄の一週間がすぐそこまで迫ってきているわけだが、今期も今期とて一向に反省の色は見られず、ただただ試験の方からこちらへやってくるのを待っているだけの日々を過ごしている。
とある科目でどうやら練習問題が配られていたらしいのだが、不幸にも僕はその回を休んでしまった。
練習問題がほしい。
女の子に話しかけて練習問題をもらいたい。
ただひとつ心配事がある。
「うわ、なんかうんちみたいなやつが話しかけてきたわ、きもっ」みたいな顔をされるのがこわい。
どうせなら「えっ?うんちがしゃべった!」くらいのリアクションをされたい。
そのままテレビ局の取材を受けて、世界初のしゃべるうんちとしてちやほやされたい。
ひとしきりちやほやされたら、その後の研究で人間であることが判明して世間の注目から身を潜めたい。
そのあいだに稼いだ金で優雅に暮らすのが僕の夢だ。
女の子に話しかけたい。
泥水うんちは犯罪ですか?
先日までの豪雨が嘘のように天気がいい。空高く突き上がる入道雲に夏の気配を感じながら、ジリジリと身を焦がす太陽を背に足取りは重い。暑さもそうだけれど、最近どうにも悩みが尽きないのだ。こんな時こそ雨でも降ってくれれば雰囲気が出るというのに、一体梅雨前線はどこで休んでいるのか、まったく空気を読んでくれないらしい。ちぐはぐな情景描写を抱えながら、今日は一つ僕の悩んでいることを話そう。
さて、先月の地震はまだ記憶に新しい。そのときトイレが使えなくなったらうんちをどうしようという問題が突如浮上したわけだが、これは度肝を抜かれた。断水の恐怖におののいていたら今度はこれでもかとばかりに大雨が降るではないか。
確かに僕はこれまでにないほどに水の存在を願った。しかしながら加減を知らないお天道様に歪曲して伝わってしまった僕の願いは、「そうじゃない」と言わざるを得ないほどの被害を下界にもたらしている。
思わぬ形で恵みの水を享受した川は荒れ狂い、このままうんちをしてもばれないのではないかと思うほどの色に変わり果てた。むしろうんちそのものが流れているのではないかと疑うほどの濁流は、忌まわしきカップルが等間隔に並ぶ河川敷を思い出もろとも飲み込み、今なおその爪痕を残している。
ところで、街が浸水して身動きがとれなくなってしまったとき、街を覆う泥水にうんちをするのは犯罪なのだろうか。
というのも、今回の浸水被害で断水を余儀なくされている地域もあるとのことで、まさか水がたっぷりあるのにトイレが使えなくなることがあるとはと戦々恐々としている今日この頃である。
いわゆる屋外排泄というものは、予想できない渋滞の発生や山中などやむを得ない場合を除いては軽犯罪法で取り締まられているらしいが、問題は本件がやむを得ない場合に該当するのかどうかという点だ。
規制の例外となる上記の二例は、まさにトイレがない切羽詰まった状態なのである。対して浸水で孤立した場合であっても、すぐそばにトイレはある。そう、ただ流せないだけなのだ。
屋内の衛生環境を鑑みれば許されて然るべき行為のような気もするが、場合によっては刑法にさえ抵触するこの行為、迂闊に外でうんちをするわけにはいくまい。
毎月のようにうんちのことで頭を抱えることになるとは、人生はそう簡単にはいかないものだ。
今日の夕飯はカレーにでもしようか......。