今となってはうんちが気になる

「うち」という言葉の汎用性には目を見張るものがある。


「僕」や「私」などと同じように一人称として使うこともあれば、「このあとうちくる?」などという使い方をすればたちまち「僕の家」「私の家」という意味になる。


ただ、そんな便利な言葉だからこそ、使い方に気をつけなければ少し厄介なことになる。二重表現というやつだ。


僕が小学生のときの話をしよう。


「うちんちね、〜〜なんだよ!!」

「あ、それうちんちもだよ!」

「うちんちも!!」


けたたましい奇声を発しながらクラスメイトの女の子たちが空前の盛り上がりを見せている。やれやれ、ここは動物園か何かか?ふと後ろを振り返ると、体育のあとの着替えの最中で調子に乗ってパンツをおろした猿どもが腰を振り回している。あろうことか、どうやら僕は本当に動物園に迷い込んでしまったらしい。ビタンビタンとはねるイチモツたちが夏の終わりを奏でている。


次の瞬間、真冬に縄跳びを打ちつけられたような乾いた音が鳴り響く。殺気立つ教室。音のした方に視線を移すと、しびれを切らした担任の先生が教卓に手をつき文字通り食ってかかろうかという形相で児童を睨んでいた。


「あのね、君たちね!」


ついにきたか......。そりゃそうだ。いくら温厚な教師であろうと、目の前で児童が全裸で腰を振っていたら叱責の一つくらい浴びせざるを得ない。こんなことに体力を使わなくてはならない先生が実に不憫だ。


「あのね、君たちね......!『うちんち』ってね、『んち』ってのは『のうち』って言葉の略なんだよ!『うちんち』って言ったらね、『うちのうち』って、『うち』って二回言ってるんだよ!!」


いやそっちかーーーーーい!!!


普段は頭脳明晰冷静沈着ウルトラクールボーイを貫いていた僕でも、さすがにこれはツッコまずにはいられなかった。しかし、さすがは頭脳明晰冷静沈着ウルトラクールボーイの僕、いやそっちかーい事件以上に気になることがあった。


先生、その理屈はおかしい。


「うちんち」が「うちのうち」の略であるところまでは共通理解としよう。しかしここで言う「うち」には二つの意味がある。前者の「うち」は一人称としての「うち」であり、後者の「うち」は単純に「家」を意味する言葉である。したがってこの二つを並べたところで「頭痛が痛い」に代表されるような二重表現には当たらないのではないか。


また、もし後者の「うち」という言葉に「『私の』家」という意味を持たせることで「うちんち」は「誰の」の部分で重複を起こしていると反論するのであれば、同じ理屈で「僕んち」や「あたしンち」まで否定しなくてはならない。これではせっかくの名作アニメが台無しだ。


そもそも僕はこの二重表現を無条件に否定する風潮が気にくわない。文脈次第では意味が十分に成立しうるものも多々あるのではないだろうか。


「世の中には様々な痛みがあります。頭痛、腹痛、腰痛などなど。さて、あなたにとってはどれが一番痛いですか?」

「頭痛が痛いです」


こういった具合にね?


そんなことを考えていたのはもう十年以上も前のこと。今となっては「うちんち」の中には「うんち」が隠れているなあくらいしか思わないほどの体たらくぶり。まったく時の流れというものは恐ろしい。