シュレディンガーのうんち

 

物理学の世界は実に難しい。経済学の扱う単純な複利計算にも日々頭を悩ませている僕には到底理解できない領域である。とりわけ相対論と並んで現代物理学の根幹を成すと言われる量子論に至っては、てのひらのしわの数をかぞえていた方が有意義なのではないかと思わせるほどに難解だった。

 

コペンハーゲン解釈というものがある。

 

量子の状態はいくつかの異なる状態の重ね合わせで表現され、観測することで初めて観測値に対応する状態に収縮するとする解釈である。

 

複数の状態を同時に持つということで、僕らの常識などというのはミクロの世界には通用しないのだなあと驚かされるばかりである。

 

 

 

ところで、うんちは汚い。

 

 

 

トイレに浮かぶうんちを激流で流そうものなら、雑菌や何やらが撒き散らされて呼吸するのも憚られる。

 

この撒き散らしを防ぐ手段として、蓋を閉めてから流すという画期的な方法があるらしい。蓋をすれば雑菌は撒き散らないし、荷物の落下防止にもなる。実に理にかなった対策である。

 

しかし、待ってほしい。

 

ひとつだけ、本当にひとつだけ、気がかりなことがある。

 

まず、蓋のあるトイレを用意して、この中にうんちを一巻き入れる。レバーをひいて水を流したとき、十分な水圧が確保できればうんちは流れるが、そうでなければうんちは流れない。

 

ここで、十分な水圧を確保できるか否かを量子的に確率解釈できるとする。すると蓋をした状態では、うんちが流れているかどうかがわからず、うんちがトイレに存在する状態と存在しない状態が重なり合った状態であると解釈できる。

 

これを仮にシュレディンガーのうんちと名付けよう。

 

さて、うんちがそこに存在し、かつ存在しない。こんなことを許していいものだろうか。

 

こんなことではトイレに入るたびに「今日はうんちあるかな......ないかな......」とドキドキしながら蓋を開けなければならない。トイレはもっと心休まるところであるべきだ。

 

ということで、量子論に対する痛烈な批判としてこのシュレディンガーのうんちを提唱するわけだが、それはそうと蓋をしてうんちを流したとしてもどうしても隙間はできてしまうらしい。

 

隙間が狭いぶん圧力が大きくなってしまうからか、しばらく蓋閉めうんち流しを家のトイレで試してみたところ、トイレの先端部分に瞬く間に黒ずみが生じる結果となった。

 

それ以来蓋を閉じることをしていない我が家ではうんちが重なり合うことはなくなったわけだが、今日もどこかでうんちが重なり合っていることを考えると、物理は実に奥が深い。